2015年12月30日

ベートーヴェン第九交響曲の世界へようこそ 2015年が暮れていく


佐渡裕の第九演奏会から三日目。
いまだに第九の放射するエネルギーのなかにいる感じ。
第九のCDを聴いてみたいというリクエストが寄せられているので
まとめてお答えすることでご容赦を。


10代後半から20代にかけての10年はベートーヴェンの研究に没頭した。
文献としては、セイヤーの畢生の大作「ベートーヴェンの生涯」(上・下。音楽之友社刊)。
これは、ベートーヴェンの残した客観的な資料を集めて考証した伝記で
基準となるもの。

耳が聞こえなくなって、苦渋の顔を浮かべて、ハイリゲンシュタットの森で…という
あの既成概念を洗い出すためにも信頼できる資料が必要であった。
セイヤーの伝記はベートーヴェン研究の基準となるもの。
当時のぼくは生きるか死ぬかという生活であったが
いまこれを読まなければならない、との決意で
ベートーヴェンが生まれてからこの世を去るまで
当時のヨーロッパの社会生活を交えながら脚色を避けて正確な考証に徹している。
上下刊で1,200頁を越える大作を2か月かけて読んだ。
(どんなに苦しいときでも自己投資の時間と費用は惜しまないで生きることを学んだ)

主要な作品は総譜を求めて実際の演奏と照らし合わすとともに
自分ならこうする、との思いで総譜に書き込んでいった。

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真実と思ったことがある。
それは、作品と同じ魂の高さでなければその真価はわからないということ。
自分を磨き上げることでベートーヴェンの音楽をたぐり寄せるしかない。
さまざまなことに研鑽を重ねた若い日々だった。
(そのお陰でいまがあるのだけれど、いまだって当時と変わることなく挑んでいる)

今回は第九の話なので
そんなぼくが心を揺さぶられた演奏(レコード・CD)について記したい。

宇宙には芸術を生み出す混沌としたエネルギーが充ちているけれど
それを美というかたちにするためには女神のささやきが必要である。
ただし、女神は自ら作品を創造できないので
自らの魂をこれはという芸術家に降ろしていく。

その魂が降りた作曲家がベートーヴェン。
没後188年が経過してなお、
その音楽が洋の東西を越えて人々を感動させるのだから。

その作曲を演奏するのが指揮者とオーケストラ。
作曲者と同じ高さまで登り詰めないと人々を感動させる演奏はできない。
作曲者が乗り移って鬼気迫る音楽を紡いだのがフルトヴェングラー。

夢見るような少年期の表情、
痛切なまでの憧れを大人になっても持ち続けたのではないかと思える。
もちろん、そのような男を女性は放っておかないし
彼自身も恋多き男だったかもしれない。
彼が活躍した晩年は戦中から戦後にかけて。
19世紀のロマンティシズムがまだ社会の各所に息づいていた時代に
夢見る大人が夢中で演奏したベートーヴェン。
雄弁でありながらどこか寂しげで、
高くそびえ立つアルプスの高峰のように豊かでもあり、
人恋しくうたう切なさと雄弁なフォルテ、
潮が満ちて引くような生理的な呼吸が
ベートーヴェンそのもののように崇高で無邪気で律儀でもあり、
雷に打たれたような、身震いして宇宙と共鳴するような凄みでもあり。

CDは1951年のライブ録音、バイロイト祝祭管弦楽団を指揮したもの(通称バイロイトの第九)
復刻処理でみずみずしく滴りおちるような再生音になった。
音が悪い、録音が古いかどうかは耳で判断して欲しい。
ベートーヴェン:交響曲第9番《合唱つき》[バイロイトの第9/第2世代復刻]


ぼく自身は第九のレコード、CDをたくさん持っているが、
それらをすべて解説していたら日が暮れてしまう。

おもしろいものを3枚ぐらい拾ってみよう。

ひとつは、バーンスタインが、ベルリンの壁崩壊のときに演奏したライブ。
これも歴史の証人のような場面でバーンスタインのみならず
ただならぬ雰囲気のなか、演奏が行われている。
(1989年12月25日、東ベルリンにてライヴ録音)

ベートーヴェン:交響曲第9番「合唱」

もともと熱を持った指揮者が燃え尽きるような演奏。
なお、第4楽章では、Freude(歓喜)をFreiheit(自由)に変更して歌っている。


音楽を伝統の枠のなかで純粋に響かせても第九は美しい。
そのような演奏もいくつか。
ベートーヴェン:交響曲第9番「合唱」

ベートーヴェン:交響曲第9番<合唱>

ベートーヴェン:交響曲第9番「合唱」


しかし、「伝統」というのは良くも悪くも権威、常識と結びついて
革新的な伊吹で熱を帯びることはない。
第九も作曲当時からの垢が付いてきた。
それらをそぎ落として新たないのちを吹き込んだのがノリントン。

考えてみれば、ベートーヴェンの作品のコピー、
すなわち楽譜(写譜)は劣悪な環境でなされている。
悪筆の作曲家のペンの跡をなぞるのは他人である。
音楽のことがわからないと、基本的な写譜ミスをしてしまうかもしれない。
逆に音楽のことが分かりすぎると、
ベートーヴェンが従来の常識を越えて飛翔している
場違いな音符を排除してしまうかもしれない。
いや、作曲家自身も耳が聞こえないうえ、
オーケストレイションが上手な人ではない。
校正を重ね、熱にうなされるようにペンを走らせていただろうから
手元には何種類もの原版があったに違いない。

このような状況で原典をたどる作業すら容易ではない。
しかしベートーヴェンの真筆がわからない以上、
受けつがれた伝統を信じて音化していく人もいれば
時代考証を可能な限り行い、
垢をそぎ落としながら最後は芸術家(創造するという意味)の判断を行う人もいる。

ノリントンは後者の人である。
演奏は聴いたことがない新鮮さ、
次々と現れる耳慣れない表現に釘付けになる。
身体が動き出す。まるでロックのよう(ベートーヴェンの音楽がそうなのだ)。
それでいて、ベートーヴェンの音楽は壊れていない。
奇をてらうことを目的ではなく
作品に魂を吹き込むために演奏していることが伝わってくる。
ノリントンはベートーヴェンの本質を捉えていると直感でわかった。

だから、ノリントンの第九は欠かせない。
ノリントンには新旧2種類のベートーヴェン交響曲全集がある。
オーケストラの良い新盤(シュトゥットガルト放送交響楽団)と
旧録音(ロンドン・クラシカル・プレイヤーズ)を区別しよう。
第九は幸いにも単体で発売されている。
ベートーヴェン: 交響曲第9番「合唱」 (Ludwig Van Beethoven : Symphony No.9 D minor op.125 / Roger Norrington, Radio-Sinfonieorchester Stuttgart, Gachinger Kantorei Stuttgart) [輸入盤]


しかし、9つの交響曲を全集として聴いてみると
さらに愉しいひとときが待っている。
ところが、シュトゥットガルト放送交響楽団(新盤)の全集は廃版になっている。
気がつくと新品も中古もプレミアム価格となっている。
 → ベートーヴェン:交響曲全集(視聴はここでしかできない。英雄や第5などもとても良い演奏と気付く。ただしこのWebページでプレミアム価格で新品や中古を買ってしまわないように。ぼくが見たときには5万円の値付けも)

ある中古盤を購入しようとすると
「盤質は良いがカビあり」とある。
現物を見ないと何とも言えないが、カビが表層を食い込んでいたらお手上げである。

そこで、新品(輸入盤)を購入しようと
アマゾンUK、アマゾンUSAを探してみた。
すると、USAに1セットあった。
日本へ持ちこんで1万円弱である。
購入しようとして、再度検索してみたら
日本のアマゾンで輸入盤としての扱いを発見した。
これではオーケストラの名称で検索しても出ない。
高価な中古を購入している人のためにURLを下記に。
新盤のベートーヴェン全集が新品で買える。
(なくなればいつ再発売されるかはわからない)
Norrington Conducts Beethoven Complete Symphonies


今朝、未明は
ラトル/ウィーンフィルを聴いていた。
現代の指揮者がウィーンフィルを率いて
新しい解釈と往年の表現を織り交ぜたような愉しい演奏。
ベートーヴェン:交響曲第9番(ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)


もうあとわずかで2015年が暮れていく。
ベートーヴェンの第九とともに過ごす時間もあとわずか。
みなさまのご多幸をお祈りいたします。

平井 吉信

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この指揮棒で何代目だろう。振り続けていると、いつのまにか折れてしまう。
posted by 平井 吉信 at 14:23| Comment(0) | 音楽

楽園は近所にあるのに気付かない 光と戯れる絶景が待っている それは  


それは、とくしま植物園。
とくしま動物園の上にある姉妹施設(位置関係でいえば山を上がっていくので)。

植物園といえば、垣根にパンジーやコスモスが植えられていて
高齢者が散歩しているという先入観があり、
それまでは入口付近をちらりと歩いた程度だった。
本日も仕事をして、時間を捻出できたので行ってみた。

クルマを停めて庭園風の区画を上がっていくと
アジサイの道や雑木の森、シバザクラの植生が現れる。
それらを愛でつつさらに丘陵地を上がっていくとは雑木林があり、
市民の森と呼ばれている。
周遊コースを歩けば1時間弱といったところ。
振り返ると、動物園の観覧車、方上盆地の田園と取り巻く丘陵、
段々畑などが里山の心地よい風景を作り出している。
南東に面した地形は北西の季節風を遮り
冬の日だまりは日の光が憩い、散策とひなたぼっこを兼ねて
半日を過ごすことができる。

この時期、スイセン以外に目立った花はないのだけれど
それでも散策の途中で
野の花が丘陵で光に明滅するさまは息を呑むほど。
(大多数の人はそんな存在には気付かないで通り過ぎていくのだけれど)

きょうも富士フイルムX-E2に標準レンズXF35mmF1.4 Rで散歩。

クルマを置いてこんな道を上っていく
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スイセンを揺らすのは風と光
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撮影はシャッター速度とレンズを通る光の量を口径を絞ることで行う(絞りという)。

絞りf4.5とf5.6でこれほど違う。
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背景にサザンカを従えて撮ると、色とりどりのゼリーの宇宙に浮かぶ白い花のおもむき。
肉眼では気付かないけれど、カメラは知っているという光景。
でも、撮る前からぼくの脳内にはこの絵が瞬間で見える。
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群れから離れて、斜面に1本だけ。花の種類も異なるようだ。
純白のその装いは花嫁の姿にも似て純真な輝きを放つ。
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人間の創造力は龍をつくる
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太陽を追いかける一輪だけのシバザクラ。季節は逝ってみんな枯れてしまったのに
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振り返ると、動物園や観覧車、徳島市南部の丘陵の多い里山が一望できる
人の心を捉えてやまない風景 徳島市を代表する心の心象風景だな
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白い門の向こうにはどんな景色が広がっているだろう。誰も知らない霧に包まれた湖か
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この縄文の雰囲気を漂わせた物体は何? 木の実か
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冬至を過ぎたばかりだけれど、光の園は太陽に祝福されたほんの小さな一角にあらわれる
そしてこの地上がどれほど美しい光が明滅していることを伝えようと。
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これは未来のあなたかも。あなたをかけがえのない存在と思う仲間に囲まれて。
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参考までに地図を
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丘を越えて下界を眺めれば感無量。
徳島市南部は県内でもっとも住みやすい場所かもしれない。
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秋に置いてきたはずの色彩がまだあった。季節の神様が取り上げるのを忘れたから
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絵本に描かれた世界のよう
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光と戯れるムラサキカタバミは雑草ですか?
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あなただけが見つけられる世界は
身近なところであなたの訪れを待っているかもしれません。
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それではまたお目にかかりましょう。
良い年をお迎えください。

タグ:自宅の庭
posted by 平井 吉信 at 00:40| Comment(0) | 徳島

2015年12月28日

冬至の頃 ひだまりで背伸びして

いつ頃からか、
庭に野菊が咲くようになって数年。
冬至の頃、我先にとかれんな花をつける。
(昨日の第九のあとでは風景が変わってみえる)
生きることにこれだけひたむきになれるよ、
と笑うように。

誰かに届けたいから
そのほほえみ、ここに置いた。

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フジX-E2+XF35mmF1.4 R
ここから汲み出される色彩はこの世のものとも思えない。
フジ純正のマクロエクステンションチューブを使うと
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ピントは自分が前後して合わせる感じ。
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posted by 平井 吉信 at 20:18| Comment(0) | 家の庭

2015年12月27日

人生が駆け足を止めた 佐渡裕 第九演奏会 アスティ徳島


年の瀬になれば、第九を聴くのがここ数十年の決まり事。
ベートーヴェン研究は10代後半からで生涯の課題と思っている。
ベートーヴェンの音楽の魂に触れていた20代。
総譜を見ながら、ここは自分ならこうする、と悶々としていた。
集めたレコード、CDは数多いけれど、
実演に接する機会には恵まれていない。

そんな折、佐渡裕が自ら音楽監督を務めるプロオケを率いて来県する。
(オーケストラは兵庫芸術文化センター管。設立10年のプロフェッショナル楽団である)。
佐渡さんは震災の鎮魂で1万人の第九を振るなどきっとこの曲に思い入れがある。
しかも徳島は鳴門が日本での第九初演の地。
日曜日なので仕事を入れなくていいとチケットを手配したのが数ヶ月前。
(ぼくよりももっと聴きたいという人がいたので)

当日は小学生が遠足に行くが如し。
分刻みの仕事の日常から離れられた。
目と鼻の先のホールなのに開演の2時間前に家を出るなんて。

第1楽章アレグロ・マ・ノン・トロッポ・ウン・ポコ・マエストーソ。
弦の刻みは神秘の霧ではなくmpで明快に。
第1楽章はベートーヴェンのペンがもっともなめらかに進めている。
(実際は推敲に魂を費やしたのだろうが、ソナタ形式のひとつの完成形。これより先は弦楽四重奏の高みに入っていく)
指揮もそれを信じてやや抑えた感じで音符を空間につむいでいく。
オケの編成は50名弱だと思うが、弦を前面に押し出すことなく
比較的管楽器が目立っていたように思う。
モダン楽器を使った室内オケのような端正なできばえ。

第2楽章は、内声部の充実とパートを自在に出し入れしつつ、
音楽としての魅力を存分に引き出している。
第1楽章もそうだったが、何もしていないようで
音楽が息づいていた。
前半2つの楽章を感動を持って味わえる感性の持ち主なら
どんな境遇にあっても人生の楽しみを見出しそこに光を当てられる人。
ただしCDなどの録音メディアでは
きょうの佐渡さんのように、パートが浮き上がっては
次の瞬間に響きに溶け込む様子はマイクに入らないだろう。
実演ならではの感動もそこにある。

第3楽章の冒頭、第1主題が天上から降りてくると
魂がぞくぞくする。
ベートーヴェンが辿り着いた突き抜けた遊びの境地。
西洋的には天国の花園の逍遥、
東洋的には無為の為のような瞬間が訪れる。
モダン楽器から過剰な表情は排して
古典のたたずまいを感じさせるのは一貫しているが、
即物的に響く古楽器風の演奏とは異なるあたたかい表情を持っている。

第4楽章、歓喜の主題が低弦から次々と受け渡されていくと
主旋律とオブリガートが明滅する。
個性を持ったそれぞれの人がそれぞれ輝く瞬間がある、
違いを認め合いたたえ合うから
全体はあくまでひとつに溶け合っていくという
ベートーヴェンのメッセージが込められているよう。
佐渡裕の第九を聴きたいと熱望し
念願かなって初めて聴いたぼくの隣では涙を流していた。
理屈を越えて胸に飛び込んできたのをひたひたと感性で受け止めた涙。

佐渡さんといえば、ベルリンフィルとの初演で
背伸びしつつ力業で対峙していた印象があったが、
この日の演奏は違った。
肩の力を抜いて統率するよりもオケの自発性に任せつつ、
全体の構造はぶれないという指揮。
フルトヴェングラーは楽団員を神秘の魔法にかけ、
佐渡さんの師匠のバーンスタインはオケを乗せ上手。
この日の演奏は、一見何もしていないように見えるけれど
音楽の骨格を支えつつ、細部を任せることで
音楽が息づいている印象。
ひとつのプログラムを徹底的に磨き上げる
天才肌のカルロス・クライバーとは違うが
熱い気持ちを秘めて職人芸で端正、躍動、
精妙に描く点で音楽の方向性は似ている気がした。
それは日本人の感性も後押ししているはず。

惜しむらくは会場の容量と残響。
合唱を率いるとはいえ比較的小規模編成に対し
4千人収容のほぼ満席だから
デッドで音楽が前へ出てこない感じ。特にヴァイオリンパート。
(ぼくがいたのが後席右奥というのもあるけれど)。
これが教会のような規模である程度の残響があれば
地面に漂う低弦、空間を浮游する木管など、
ホールエコーによる恍惚とした神秘体験すらできたのではないか。
(この日の最善は、弦のバランスなども考慮すると、ある程度直接音を身体で受け止めることができた前席で左寄りの席ではなかったかと)

人生がこのように過ぎてくれたらという音楽(ひととき)は夢のように駆け抜けた。
2015.12.27 ベートーヴェン第九 演奏会にて。

 → ベートーヴェン:交響曲第9番

第九はこれがおすすめ
ベートーヴェン:交響曲第9番《合唱つき》[バイロイトの第9/第2世代復刻]
時代を経ても感動は普遍であることを教えてくれる。

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追記

少し遅いクリスマスプレゼント、喜んでくれた(感激してくれた)。
お返しは、貼るカイロ。身体を冷やさないようにね、というメッセージ。
そんなやりとりがいいようで。



posted by 平井 吉信 at 23:03| Comment(0) | 音楽

2015年12月25日

クリスマスの日、神山で神社で過ごす 邪馬台国はどのようにあったか? 


クリスマスの日、昼のひととき、
神山へ出かけた。
消費者庁の一部機能を移設するかどうかで話題になっている。
そのことの是非を問うまでもなく
省庁の組織のあり方というよりは
政治のパフォーマンスという気がする。

本質は地域に予算と権限を持つこと、
その予算を有効に活かせるかどうか。
仮に、地方自治体に委譲されたとしても、
自治体側にその能力や経験がないため、
自説や再現性のない成功体験を売り込みたい
営業のうまい著名人や組織に担がれるだけ。
(地域活性化は建築家、デザイナー、コンサルタント、ワークショップの専門家などが跋扈する世界。自分たちで考えることを放棄してしまっていいの? 当事者が動かないと成果は得られないよ)
そこを見抜く眼力を持てるかどうか。
いや、もっといえば、
ことの本質を洞察して
地域が問題発見と解決能力を持つことだろう。
行政だけでなく、
所属や立場を越えて地域の頭脳で組み立てていくようになれば意味がある。

さて、いつもながらていねいな和食を提供していただける
気持ちの良いカフェ(茶房 松葉庵)。
素材からの自然の出汁を活かしているので
つい足が向いてしまう。
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おもてなしと料理の技が溶け合って心がほのぼのとしたので
周囲を歩いてみよう。

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郵便局の裏手から鳥居が始まり、
両脇に森を従えた山道を登ると
そこは上一宮大粟神社。
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森の山気が迫り清々しい気配が鎮まるようだ。
徳島市の天石門別八倉比売神社神社と同じく独特の空気感を持っている。
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そういえば、親父の蔵書に、邪馬台国が阿波にあったという趣旨の本があった。
どこの川でも日本一の鮎と称しているように
邪馬台国は地方の数だけあってもいい。
京都から江戸へ都が移ったように
邪馬台国が時代とともに移動したかもしれない。
(九州説も畿内説も説得力がある。香川や愛媛、高知にもあったのでは?)
ぼく個人は邪馬台国がどこにあったかよりも
どのように存在したかのほうが興味がある。
歴史はネアンデルタール人のように
ミトコンドリアDNAで鑑定できないので真実はわからない。
しかしそれを考えることは幸せなこと。
なぜなら、そこに自分の存在があるから。

さて、神社をめざして山道を登る両脇の豊かな植生に目を奪われる。
いまは初冬で万両以外は見られないが、
神社の森の植生はその地域の生態系の縮図となっていることが多い。
春先にでも来てみようかな。

隣接して神宮寺がある。
品格のある庭園で端正な佇まいを持っている。
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さて、地蔵尊が冬衣装をまとっている。
良い表情をされている。
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神山町から東へトンネルを抜けると佐那河内村(県内で唯一の村でありながら徳島市内から半時間)。
吉兆で修行をされた料理屋、日本一に選ばれた豆腐店、蒔ストーブの専門店などがある。
こんな風景があることを初めて知った。
蛇行して山裾を洗う川と潜水橋、そして紅葉をふちどる岩肌、天然色の山水画の世界だが、村のパンフレットにはこの場所はまったく触れられていない。
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近所にさえ行ったことがない場所があるのだから
世界は広い。
(徳島は何もない、という人は、どこに行っても不平不満ばかり言うと思うよ)
いつもの言葉だけど
楽園はそれを見ようとする心のなかにある。


(参考)
フジX-E2+XF35mmF1.4 R1本のみで撮影。
明るい標準レンズは自分の目でもあり、
心の目(感性)での切り取りでもあり。

 → 富士フイルム ミラーレス一眼 X-E2 ズームレンズキット ブラック F X-E2B/1855KIT

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posted by 平井 吉信 at 00:47| Comment(0) | 徳島

2015年12月21日

田園に囲まれた音楽を聴くための家


完成した友人宅の新居を訪れた。
夫は高校の同級生で山と音楽が好き。
妻は近所の幼なじみで同じく音楽が好き。
ピアノにゆかりのある仕事をしている。
田園のなかにたたずむこの家は
地元の木材を使っている。

この家には裏山で取れる雑木を燃料にする蒔ストーブがある。
ほんのりとあたたかい。
炎を見ていると時間がどんどん過ぎていくけれど
それもまた時間の使い方。

テレビは見当たらない。
別室に15インチの小さなのが1台あるけれど
ほとんど見ないという。
(うちも15インチのブラウン管テレビが1台あるだけなのでその気持ちはわかる。大きな画面は不要。バラエティは見ないので芸人がわからないし流行語大賞もわからない)
パソコンもなければ、スマートフォンもない。
(ぼくもスマートフォンはいったい何に使ったら良いかわからない。もう5年も使い途を考えているのだけれど)
その代わり、電池で動くパナソニックのラジオが置いてあり
ときどき友人が聞いている。

玄関を入って左へ廊下を伝うと居間がある。
部屋にはグランドピアノ、別室にも別のグランドピアノ、
(タッチが違う)
電子ピアノもある。
宵の口ならピアノを弾いても苦情は来ないゆったりとした風景。

久しぶりだからKちゃん(幼なじみ)に
ブラームスのワルツ作品39の15番を弾いてとリクエスト。
照れながら応じてくれた。
ためらうような旋律から空に羽ばたくようで。
子どもの頃、好きなレコードだったから。
音楽は心の滋養、いつになっても、どこにいても
胸おどらせる。
どんなに短くても音楽はひとつの小宇宙だから。

お礼にオーディオ装置を手直し。
ちょっと手を入れると見違える音に生まれ変わった。
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(オーディオって買ってつないだときの10倍以上はよくなるからおもしろい。ときには名機と付き合う苦しみもあるけれど)
ここで鳴っている音にはまったく不満はない。
迫力めいた音ではなく
音楽が親密に寄り添ってくるけれど
はっとするようなニュアンスを奏でるから。
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Kちゃんは紅茶を入れてくれる。
小さな音楽で談笑のひととき。
こうしておだやかな夕暮れを迎えた日曜日。
でも…。

のどかで平和なひとときに
脳裏を離れないのは
この国の未来や社会のこと。
何ができるだろう、何をすればいいんだろう。
社会の幸福がなければ個人の幸福はありえないと。
posted by 平井 吉信 at 23:52| Comment(0) | 生きる

いつものあの人たちと何気ない時間だけれど


仕事で中村(四万十市)へ行ったら
喫茶ウォッチへ。
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この日も地元の女性客でいっぱい。
亡き店主が築き上げたJBLのパラゴンとソナスファベールを
マッキントッシュで鳴らしている。
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きょうは時間の関係でカレーのセットメニューで(焼きカレーは食べる時間を考えて断念)。
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.。'.*.'☆、。・*:'★    .。.・'☆、。・*:'★
  .。'*・☆、。・*:'★     .。・*:'☆
 ☆、。 ・*'★ .。 ・':....*.:'☆        .。・:'*・':'・★

美郷物産館へ立ち寄る
野菜をこのように陳列できるといい。
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JAの巨艦市には真似ができないのは
ここを運営する人たちの気持ちがこもっているから。
美郷で起業した徳長さんの梅酒「トオカミ」と「エミタメ」も並べられている。
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今年の自家製梅干しも上々だけど
あえてプロの作品と比べるために梅干しを買う。
(素人が手間をかけてつくり手作りの良さってあるよね)
それから昼のランチを。
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明石弘美さんの笑顔に見送られて、次の仕事へ。


タグ:ランチ 美郷
posted by 平井 吉信 at 00:00| Comment(0) | 生きる