2015年09月06日

そこに ○○があるから。気がつけば劇場

花や虫、山や川を見ている。
そこに徳島、四国の魅力があると思うから。

創造主の設計図(DNA)というか
こうなりたいと想う魂が降りてきて顕現化すると
それが、花になったり虫になったり。

でも、花というかたち(色)が尊いのではなく
そこにある霊性(空)と共鳴できたら。

10代の頃に感じたこと。
京都のとある庭に置かれた岩を撮ろうとして
同じようにうずくまって数時間。
どこまでが被写体で
どこまでが自分なのかの境があいまいになり
ふとシャッター音で我に戻るという感覚。

ここに書いている文章も
頭につながった音を言葉に紡いでいる。

自然だけでなく人も同じ。
対立ではなく無心に受け容れてみると
事態が動き出すことがある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

小雨の庭で思いがけない花がある。
赤や白が混じり花火のような場面。
(……)
わかった。
花たちが劇場を見せてくれているんだ。

姫に襲いかかろうとしている悪者がいる。
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しかし、その背後に姫を守る勇者、付き人が見守っている。
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姫は安心する。
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ところが、悪者に見えた相手も
実は心のやさしい民であったというオチ。

その横には、
6月から咲き始めたキキョウがいまも見事に咲いている。
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ありがとう、と花たちに目礼。

花や虫、山や川を見ている。
そこに生きている意味があるように感じるから。


【追記】

アマゾンのレビューを見ていると
壊れやすい、すぐ壊れたので×というものが目立つ。

同じものを使っているぼくは壊れることにほとんど遭遇しない。
モノにも精神が宿ると感じているけれど
他力本願で生きていると
モノから発するわずかな兆候に気付かなかったり
感謝の気持ちがなくなっていたりする。
すると、もうそこには
人とモノの織りなす場がなくなって相互作用(愛情)がなくなる。
その結果、なにかが変わって壊れてしまう。

クルマだって、10数年とか20万km走行などと長く使っている。
レコード盤は数え切れないぐらい再生してもすり減らない。
持ち物のなかには小学校の頃から使っているものもある。
カメラも持ち出すけれど、いにしえの機種も完動品である。
ライツミノルタなどは新品で通用しそうだ。

デジカメでは、
フジのX-E2とニコンD7000が主力機種。
いずれも最新ではないけれど
思いのままに写ってくれる。

説明の要らない場面では
小さなカメラが良いように思う。
カメラの存在感が場に与えるメッセージとでもいうか、
場の持つ空気感を神聖に思うときは小さなカメラ。
撮ってもらいたい気持ちなどに応える姿勢なら一眼レフなど。

かすかな感性のふるえを再現するためには
それなりのカメラがあったほうがいいように感じる。
道具に感性を合わせるのではなく
感性に道具を合わせる感覚。

ニコンD7000
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フジX-E2
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今回の庭の写真はフジで撮った、
と推察する人もいるだろうけれど
(ニコンは色が…という人がいるけれど、ぼくはそのようなことは感じない)
現実感のなかにファンタジーを描いたのは
ニコンD7000+AF-S NIKKOR 70-200mm f/4G ED VRである。
特にフラットというカラーモードが生きている。
(Web上では再現できないけれど、ナナオの色再現性に優れたカラーモニターで眺めると息をのむほどの美しさ)


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posted by 平井 吉信 at 23:00| Comment(0) | 家の庭

原点の公式があるはずだから


地元で採れた米を
その日食べる分を精米してご飯を炊く
(七分づき)

茶碗に装い、
和田島のちりめんにすだちをかけ
自家製の梅干しを置いて
茶をかける。

緑茶は、
苦みのある茶もいいけれど
知覧茶を選ぶ。

仕上げに地元の焼き海苔を置いた。
(有名な地元ブランドもあるけれど、海苔の風味が生きているとくしま漁連を選ぶ)

米を噛みしめつつ
ちりめんの食感をすだちが引き締め
海苔が香りとで旨味がぎゅっと詰まっている。
茶をぶっかければ
咽から鼻腔へ誘いかける香りが先導して
緑茶に乗って体内へ吸い込まれていく。

これを茶漬けという。
(茶葉を除いて半径10q圏内の食材で完結)

生きていくために身の回りにいのちがあり
それを届ける人がいて
いただいた恵みを別の方法でお返しをする。
それを地域経済の循環という。
いや、それが地域で生きること。

魅力=理念(考え方)×地元にあるもの×発信(個性)=経済(売上)

原点の公式は普遍だけれど
角度を変えて外から見れば
別の意味を持ってくる。

原点の公式とはモノサシ。
それに気付くこと、見つけること、
そこから始めないと―。

posted by 平井 吉信 at 15:55| Comment(0) | 生きる

2015年09月04日

おわら風の盆 生涯に一度の逢瀬


暦を見ていて、
ああ、風の盆だな、と気付いた。

わが南四国の阿波おどり、よさこいも良いけれど
暮らしと世代が溶け込み、まちと風土の一体感、
魂と身体の輪郭の境目がなくなる旋律の深みは
おわら風の盆にかなわない。

胡弓、三味線にからみつく謡い、
うたに寄り添いながらも
自ら鼓舞し空間に散りゆく地方(じかた)。
唄い手を支え、それ以上に調子をつくる囃子。
人生は走馬燈のめぐり、
迎えた秋の実りを送る風の神を鎮める祈り。

どこの祭りにも似ていない、
どこの祭りよりも独創的。
季節は夏のおわり、
熟すのを待つことはできず
指の先にひるがえる
若い男と女の所作に隠した刹那の情熱。
(女踊りは阿波おどりに似ていなくもない)

そこには舞台も照明もなければ
観光客をもてなすこともない。

一度でいい、
招かれざる観光客となって
諏訪町の石畳をしゃなりと過ぎる
深夜の町流しに居合わせたい。
(生涯に一度の逢瀬)

八尾は高台にある
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風が吹かない夏の坂を上がっていく
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諏訪町のまちなみ
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タグ:祭り 踊り
posted by 平井 吉信 at 23:35| Comment(0) | 生きる