2015年02月22日

観光案内には載っていない 外ノ牟井浜


とのむいのはま、と読むこの海岸は
徳島でもっともすぐれた観光資源のひとつで、
南阿波サンラインにある。
(とはいえ、県内の観光パンフには載っていない。テーマパークだけが観光地と考えてしまうのだろう。そしてこれは事実と思うけれど、観光パンフの観光地はたいがいはつまらない。DVDで見るのがいちばんなのだ)

もっと非日常に、心が広がっていく雄大さ、
時間の進み方が遅くなったような錯覚、
それは他の観光地では得られないもの。

しかもここは観光地ではないから
人と会うことは少ない。
出会いを求めて施設や商店街を訪れるときもあれば
ひと=社会の規律を意識しないで過ごす時間も必要。
そんな人のための場所が南阿波サンラインなのだ。

外ノ牟井浜へコースターのように降りていくと
釣り人が1人いただけ。
南端の洞穴から渚を望む。
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南端の岩場をよじ登ることができる。
それは、釣り人が釣り場までの小径を岩場に開いたもの。
そこから外ノ牟井浜を見下ろしてみる。
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小さな湾内の入口に白波が立つ。
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そして浜に押し寄せていく。
このような構造の浜では泳いではいけない。
おそらく引き波が相当強いはず。
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岩場に枯れたシオギクを見つけた。
室戸岬と蒲生田岬だけではなかったのだ。

風を遮り空気は暖かい。
というより、南阿波サンラインだけ陽光と潮風と
あと数ヶ月後には萌える緑となる海岸性照葉樹の森が
かすかに芽吹いているよう。

雨が降ったあとの晴天に訪れてみるといい。
浜の北端の崖から海へ直接落ちる滝が見えるはずだから。

お弁当を持って、春がフライングして訪れる
外ノ牟井浜を訪ねてみては?

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5月にもなれば
薫風とともにアオスジアゲハが浜にやってくるだろう。
春はもうそこまで、そしていつかくる夏も。
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(追記)
マニアックな話だけれど
フジのデジカメは昨年から
「クラシッククローム」というカラーモードが使えるようになった。
標準的な色調のプロビア
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クラシッククローム
これはコダクロームのテイストも感じるけれど
フジクロームR100のような色では?
青みがかるシャドーが改善されていて
深み(コク)を感じる。
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posted by 平井 吉信 at 19:06| Comment(0) | 山、川、海、山野草

2015年02月15日

桃がゆらめく朝


目が覚めてカーテンを開けたとき
2月の半ばというのに、春霞を感じた。

庭の桃はすでに開花していた。
花を明滅させるのは、朝の陽光。
風がとまり陽炎のように揺らめく。

太陽をぐるりと巡る365.2422日の
自らもぐるりと巡る23時間56分4秒の
その刹那。

桃下で空を見上げた。
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北の国の人たちへ
一足はやい南国の春をどうぞ。


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posted by 平井 吉信 at 10:35| Comment(0) | 家の庭

2015年02月11日

いつもいつも見つからなくても言葉は社会から預けられた道具 


生まれて一度も使ったことがない言葉はたくさんある。
知らないから使えない、ということはあるとしても、
意識して使わない、使えない言葉がある。

そのひとつが「マジ」。
(伏せ字にしたいぐらいなのだが、それではわからなくなるので)
中学の同級生がよく使っていたけれど、
最初に聴いたときに意味がわからなかった。
前後の文脈から察すと「まじめ」「真剣に」という意味ではなさそう。
そのときのわからなかった経験が心に残骸となって
この言葉は使わない言葉となった。

この類はほかにもある。
「ハンパナイ」というのもそう。
中途半端ではない、を短くしたのかと思ったけれど
意味が少し違うような気がする。
ひねらずに「優れている」のひとことで足りる。

「正直、もうダメだと思いました」のように使う
「ショウジキ」も使いたくない。
「正直に言って」を略しているように見えるけれど
「率直に言って」に近いように感じられる。

言葉って無頓着に使いがちだけれど
人を傷つけたり誤解されたりすることは避けたい。
どこかの国で演説を行った誰かの言葉が「誤解されて」
(相手方からみれば、「誤解をしたふりをして」)
口実を与えたかもしれない。

スポーツのインタビューで
「ぼくの(私の)プレーで被災地の人たちに夢や希望を与えられたらと…」
のコメントを耳にすることがある。

えっ!?
言っている人には悪意はないと思う。
でも、これを聴いている人はどう思う?

夢や希望って、さあ、どうぞと与えられるもの?
誰かの言動がきっかけとなることはあっても
自分で掴みとり感じるものではないだろうか。
世界平和のためには?の問いに
「家に帰って家族を愛してあげてください」と答え、
人々に無償の愛を伝えたマザーテレサならどう言うだろうか?

もっともスポーツ選手(典型的な体育会系の人)の場合、
あまり深く考えずに話している人が少なくない。
「きょうはね、まっすぐがね、いいコースにね、ちょうどきたんでね、バットを思い切り振りました。チームに貢献できて最高っす! これからも応援ヨロシク!」

国語を磨いて生きている人たちではないことはわかるけれど
スポーツだって洞察力や直感力、感性が必要では?って思う。

その点、イチローのインタビューは機知に富んでいて楽しい。
記者の思惑をはぐらかしつつ
スポーツ選手の既成概念を覆すやりとりのなかに
彼のプレーにつながる要素が垣間見えるのだ。

大リーグで長きにわたって一流選手であり続けられるのは
PDCAサイクルを意識して回しているから。
彼のなかでは毎日の決まり決まった日課や所作があって
その結果、何がどのように変化したかを観察して修正している。
結果に一喜一憂することなく、
納得できるプロセスを積みあげることを大切にしているように見える。
そのことがかえって結果につながっているのだ。

すぐれた動体視力、強肩、俊足という3つの強みを活かした
プレー様式をつくりあげている。
ドラッカーなら、強みを活かして特化できた選手と評するだろう。

だから、部分的な筋トレなどではなく
骨格の動きを中心に、
神経作用の伝達や筋肉の動きを磨き続けているのだろうと思う。
しなやかで、したたかな野球への向き合い方が
言葉ににじみ出ていると思うのだ。

言葉を使ううえで暗黙のルールがあるとしたら
その言葉が誰もが認識する意味(語義)で使うことだろう。
(辞書を引けばわかるということ)

単語を組み合わせて感情を解き放つのが文章であり言葉であるはず。
ルールというよりは言葉を使う「前提」と捉えたい。

いい楽曲だなと思って聴いていると
歌詞がひっかかることが少なくない。
(もったいない)
歌詞は論文ではないし国語の問題集でもない。
(学術論文でも無意味な二重否定の多用、〜と言えなくもないであろう、あざやかに記録を残す選択肢を考える余地がなかったというべき〜など持って回った「学者表現」が鼻につく。論文こそ、気取りを捨てて簡潔に伝えるべき)

歌詞は聴き手が自在に自分のイメージをふくらませ
自分の体験や思いを重ねて捉えられたらそれでいい。
だからこそ、語義をいじる使い方は避けた方がいい。

クールジャパンの本質のひとつにアニメの表現がある。
そこで、90年代のある人気アニメを分析しているところ。
世界各国で放映されたもので
もう20年になるというのに根強い人気がある。

作品の転機となる場面で挿入される歌の一節にこんなフレーズがある。
「夜のまほうの 封印はなって」

自分をかばって倒れた恋人を抱きかかえて
主人公が涙を流す。
すると、幻の銀水晶が引き寄せられるように出現する。
放心状態でたちすくむ主人公。
そして、仲間に見守られながら
探し求めていた月のプリンセスが現れる。
純白の衣装を身にまとい、
重い運命を背負う永遠の哀しみと諦念さえ浮かべた主人公がうつむきがちに、
そして顔を上げてかすかに微笑む。

花びらがはらはらと舞い降りてくるような
晴れやかで朗らかでおだやかな慈しみ。
この作品の白眉の場面と思う。

ただ、「封印を放つ」とはどんな意味?
見えざる力が働いてて封印が解けていく。
この「封印が解かれる」状態を「封印を放つ」と言い換えられる?

とはいえ、全200話のなかでも
作品の世界観が凝縮されたこの数分。
「そっと耳をすまして 甘やかな吐息…」の作詞の感性。
寄り添う楽曲とコーラス、心の変化を暗示するコード進行。
初めて大切な人に触れたときのときめきと切なさを思い出して
胸が熱くなる人もいるだろう。
(美少女戦士セーラームーン 第34話「光輝く銀水晶! 月のプリンセス登場」)

もしプッチーニがこの場面を見たのなら
感動してオペラをつくったことだろう。
彼の「蝶々夫人」第一幕で、
蝶々夫人が日傘をさし友だちを従えて
背後にきらきらと光る海を愛でつつ
弾む息をこらえつつ歓びを隠そうともせず
しずしずと登ってくるあの場面の音楽のように。
(蝶々夫人の第1幕はぼくの宝物)

余談だが、各国の言語でアニメ化されているのを見ると
やはり日本のアニメはオリジナルのまま、字幕で見た方がいいと思われた。
声優の細やかな表現、間合いの取り方、息づかい、
それに音楽との一体感が作品に生命を吹き込んでいる。
海外での吹き替え版はまるで大味で
翻訳した台詞をそれらしく当てはめているだけのように聞こえる。

正しい言葉を使うことが目的ではなく、あくまでも言葉は道具。
言葉が感情を伝えるとは限らないし
感情を的確に伝えられる言葉が
いつもいつも見つかるとは限らない。
それでも、生身の人間だから、
一つひとつの言葉を品定めしつつ
社会から授けられた道具を大切に使っていきたい。

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2015年4月6日(月)18時30分からNHK BSプレムアムで再放送とのこと
http://www.nhk.or.jp/anime-blog/0010/207768.html


posted by 平井 吉信 at 11:51| Comment(0) | 生きる

2015年02月08日

「なに」をするか、ではなく「どのように」


事業仕分けが行われたとき、その事業は是か非かで仕訳が行われた。
問題は事業そのものではなく、その運用ではないかと考えている。
政権が変わると予算の配分が変わり、選択と集中が行われる。

年金記録のチェックをしよう、
中小企業の支援を行う拠点をつくろう、
日本人が危険にさらされたとき救助すべきだ―。

そのこと自体は誰も異論はない。
問題は、それをどのように行うか。

多額の費用をかけて成果が得られなかったとしたら―。
政策が目的とする支援対象者に届けられず、元締めが潤うとしたら―。
請け負った事業者が現政権に関係がある、かつて政権にいた者だとしたら―。
軍需産業や憲法改正、自衛隊派遣の口実になるものとしたら―。

大義名分がパフォーマンスとなって
国民の目を欺きつつ特定の誰かが利得して
それが環流する政官財の癒着が見えてくる。

それなのに、
まじめにこつこつ執行されている大多数の事業が減額されていく。
(事業仕分ではやぶさ関連の予算が削減されたと聴いて驚いた。一律にばらまいたところで国の未来はつくれない。日本の強みを伸ばす予算は削減してはならない)

消費税を増税して景気が減速すると
またもばらまきが行われる。
それらは一時的なもので財政を悪化(=未来から借金)させるだけ。
(もし増税をするのなら、財政はむしろ引き締めなければ)。

この国には問題が山積している。
けれど根源をたどっていくと2つか3つの課題に帰結するように思える。

・少子高齢化 → 人口減少と生産活動の衰退。
       → 各産業で構造的な人手不足
       → 世代間の不公平感 → 晩婚化で少子化が加速
・中央集権  → 利権の温床と補助金依存の構造
       → 地域や国民の自立の機会の喪失
・格差が広がる社会 → 貧困層の増大
          → 教育の機会均等の喪失
          → 持たない者の健康や食生活が脅かされる

日本はすでに負の循環に入っている。          
これらの課題にただちに着手しなければ、この国はどうなるのか?

あるべき姿は、日本の強み(クールジャパン)を伸ばすこと。
・最低限の公助(財政規模に合った身の丈の小さな政府)を基本に、共助、自助を中心とした地域社会をつくる。
・格差の是正をうながす(税制措置として消費税のわずかな増税、資産課税や累進課税の強化、法人税は軽減しない→ すぐれた経営者は法人税率など問題にしない)
・世代間の格差の是正
・食糧の自給に向けて産業政策
・製造業の国内での拠点回帰、ものづくりの楽しさの啓発
・外国人労働者の受け容れ緩和
・近隣諸国を最重点に、いかなるイデオロギーとも対立しないで日本のすぐれた価値観(クールジャパン)を啓発する真の意味での平和国家。
・観光の本質を磨く(といっても国は何もしなくていい。日本の文化やおもてなしに憧れて外国から来るのは口コミが原動力なっていて政策などではないのだから)

もはや政党政治は機能していないし、
良識ある政治家が引退したり、落選することが少なくなく(=有権者に見る目がない)
政治には期待はしない。
(だからといって無関心はもっといけない)
その代わり、国から地方に至るまで議員を廃止し
特定のテーマ毎に専門的知見と現場感覚を持つ人を集めて
権限を持たせ(これまでの行政主導の委員会ではなく)
公開で議論を行い
その成果を踏まえて行政が執行していくのがよいのではないか。
(議員報酬の代わりに費用弁償程度を支給)

報道でさえ本質を伝えなくなっている。
気骨のある政治家、ジャーナリストがこの世を去ったり高齢化している。
NHKを筆頭にマスコミが権力に屈している。


何が正しいかそうではないかという基準はあくまで相対的なもの。
現実の世界(社会)は矛盾だらけ。
それがあたりまえ。
社会が矛盾に充ちていて、この世界が理想郷でない以上、
矛盾を矛盾として抱えたまま、顕在化させずに生きていくことはできる。
それが、人生であり、経営(マネジメント)であり、国家の舵取り。

大切なのは「どのように」行うか。

追記

数年前、ある政治家が公費である島を購入しようと計画を企てたことがきっかけとなって
近隣国と関係が劇的に悪化し、双方の国に精神的物理的な損失をもたらした。
「正しさ」を振りかざして国益を損ねた。
国内外で多くの犠牲者を巻き込んだ
70年前のできごとから何も学ぼうとしていない。
(イスト、イズムを越えたところに日本ならではの花が咲いている)

何が正しいかではなく、それがどのような影響を及ぼすかに思いを馳せること。
なにかに取り憑かれたように周囲が見えていないのではないか。

経済とて時代錯誤だ。
ピケティーの著書を読むまでもなく
戦後のある時期だけに発現した現象を
人口減少の低成長期のいまに処方しようとしている。
滴はしたたり落ちたりしない。
なぜなら泉が沸き上がってこないのだから。
このような時代には格差を是正する方向でなければならない。

この国の行く末に対して処方箋が見当たらない。
「おめでとう」と愛でる気分にはなれそうもないので
年賀状は数年前から筆が止まっている。

どのような国にしたいかを一人ひとりが課題として受け止めて
よく考え、自ら実行していくしかない。
一人ひとりにできることを地道に―。
宮沢賢治もあのケンジさんもそう信じていたはず。

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東京出張の帰りの飛行機から見えた富士山
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東京駅 丸の内側
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併設されている水族館にふらりと
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光のプロムナード
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posted by 平井 吉信 at 12:43| Comment(0) | 生きる